緊張と緩和

ギターとかジャズとか格闘技とか

アドリブについて

ジャズはアドリブに重きを置いてるけどそれってどうなのよ、ってことが長年の疑問です。
すばらしく完成されたアドリブソロもあれば、そうでないものもあります。

すばらしい演奏をみんな聞きたいはずなのになぜアドリブを聞きたがるのだろうか。

もうちょっとブレイクダウンしてみるとこんな感じ。

  • すばらしい演奏を聞きたいのならキチンと作曲されたソロのほうがいいはずなのにアドリブに価値を置いてしまうのはなぜか?
  • 演奏のたびに毎回ソロが違うのは旋律(メロディー)としての完成度が不完全なためではないか?
  • 本当にすばらしいものは演奏のたびに音符が置き換わってしまうような柔軟さとは相容れないのが本来の姿では?つまりアドリブソロは不完全な旋律では?
  • その場その場で即興として奏でなれる旋律よりも考え抜かれた旋律のほうが完成度が高いのでは?
  • 「ジャズは演者どおしの反応でどんどん曲が(フレーズが)変化していくのが醍醐味」というのは理解しているが、醍醐味を感じさせるソロを用意しておいたほうがさらにレベルの高いソロが聞けるのでは?

クラシックのように譜面を緻密に再現する演奏は求めてないのだが、「もっと良い演奏を聞きたい」「もっとすごいのを聞きたい」と思ってしまう。「良いもの」「すごいもの」となると、やはりジャズはアドリブに重きが置かれる。
それはなぜか?について考えてみました。

ゲームとしてのアドリブ

ビバップ的なアドリブについてはゲームとしての楽しみがあると思う。
ドミナントモーションの中で、フレーズのおもしろさを競うゲームとしてのアドリブ。それはひとつのルールの中で技を競うスポーツに似てると思う。
名試合の再現をどれだけ緻密にやってもスポーツとしてはおもしろくないわけで。やはり試合には、相手の反応から引き起こされるアクションが見たいわけであり。
つまりそれは駆け引きとか騙し合いとか調和とかが演奏の時間軸の中でランダムに発生することではないかと。
そこにゲームとしてのおもしろさを見出しているように思います。

クオリティとゲーム性

そうなると、ゲームとしてのおもしろさはクオリティを求める欲求より優先されるのか?という疑問が浮かぶ
これについては、そういう面はたしかにあるなあと思う。しかし反面で断片的なクオリティを強く求めてるのではないか、とも思う。
ひとつひとつの技については、すごく注目してアドリブソロを聞いてるように思う(=個人の感想)。
格闘技の試合に例えると、
「いまのハイキックよかったねえ」
「ミドルキックのディフェンスからパンチ連打にもっていった攻防が見事だった」
みたいな感じで
「いまの早いフレーズよかったねえ」
「ピアノのブロックコードを受けてのサックスソロが見事だった」
とか。
こんな感じで全体の構成よりも1個のアクションにかなりフォーカスしてることが僕自身については多いように感じてます。
もちろん全体がどうでもいいわけではなくて、1個ずつのアクションが集まった総体としての楽曲全体の構成を最後に俯瞰で見るみたいなものに感じます。
(そもそもジャズはアドリブによって曲の長さが伸び縮みするので、全体を俯瞰で見ることは演奏終わってからじゃないと分からない)。
そういう意味ではゲーム性の中にクオリティを求めているのではと思ってます。

楽曲のルールの中で個々の演者がどんなゲームをするか、ということが大きな要素かなと思います。
演者すべてが良い演奏をしなければ完成度もクオリティも下がるのか、といえばそんなことは無くて。
ジャズのおもしろさは個々の演者の演奏による部分が大きいのではないかと。
例を上げると、
ジョン・コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」でトミー・フラナガンがヨレヨレのピアノソロをしてても「ジャイアント・ステップス」が名曲であることには変わりないわけですから。
もちろん全体の構築美がすばらしいジャズ演奏もあるわけで一概にゲーム性だけでアドリブソロのクオリティを説明できるとは思ってないですが。

まとめ

つまり「良い演奏」が何を指してるかがジャズは違うのではないかな、と思います。
アドリブを「即興での作曲」と捉えるか、「その場の反応」と捉えるか、によって変わるし、人によってその定義はもしかしたら変わるのかもしれない。

まとまってないし、解決になってないですが、こんな感想を持ちました。