緊張と緩和

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柳家喬太郎『ハンバーグができるまで』に思うこと

柳家喬太郎新作落語「ハンバーグができるまで」を鈴本演芸場で聞きました。

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この噺、数回聞いてるのですが、いつも「不思議な噺だなあ」という印象を受けます。
商店街を舞台にした人情噺のようであり、
滑稽噺のようであり、
男女(別れた夫婦)のすれ違いと別れを描いた悲劇でもあり、
たぶんいろんな感想を持つ人がいるのではないでしょうか。

冒頭は商店街のドタバタで物語が進行する。そのまま滑稽噺になると思いきや場面が転換して別れた夫婦の場面に。密室劇のような密度と緊張感に舞台の空気が一変し、別れた夫婦の微妙なやりとりに焦点となる。やりとり。とは言ってもふたりの間に心が通じあうことはついに、無い。

男は男で単純な期待(もう一度やりなせるのでは、という勝手な期待)を抱き、女は女で自分ひとりの納得(再婚の報告と別れ)のために(元夫への配慮無く)物事を進めていく。別れた夫婦の前には微妙な齟齬がゴロリと転がる。男の大嫌いなニンジンもハンバーグの付け合わせとしてゴロリと皿に盛られる。

そして女は別れを(勝手に)告げて男のもとを去る。男と皿に盛られた大嫌いなニンジンが残される。女が残していった微妙な齟齬と共に。
男は意を決してニンジンを食べる。
「なあんだ、ニンジンって結構...うまいじゃん」

最後の言葉は、齟齬を齟齬として飲み込んだということだろうか。大嫌いなニンジンを飲み込んだように。
現実を現実としてうけとめたということか。男の成長ということか。
このあたりは人によって受け取り方が様々と思います。

「商店街の人たちのおせっかいがキッカケで元夫婦は互いのわだかまりを解消してヨリをもどしましたとさ。めでたしめでたし」
とならないところが現代的と思う。
互いの心の齟齬なんて現代の人間関係ではそんなに簡単に解消できない。

「人情噺」的な噺でありながら、この噺では人情では何も救われてないところもおもしろい。
人情=情愛(商店街の人々の勝手な心配とおせっかい。夫婦のひとりよがりの期待と行動)をキッカケとして物語をドライブさせてるのに、最後までこれらは噛み合うこと無くすれ違う。
そもそも元夫婦の間に情愛は無い。ふたりとも個人主義であり自分勝手でワガママである。
そして男は幼稚である。「いい大人でありながらニンジンが嫌い」「商店街の人々からこどものように心配されている」「離婚してから在宅仕事になり、結果的に社会性が低下してる」「地域社会(商店街の人々)と(自分から)つながりを持とうとしない」という「幼稚」であり「社会性に欠けた」人間(=ある意味現代的な人物設定)、である。

まあ、僕も同じように社会性が低くて幼稚なものですが。。
そのくせ古典落語の世界のような「地域社会との深いつながり」と「大人が大人として機能する社会」に憧れたりもしますが。

人情噺のフォーマットを現代にあてはめるとこうなるのかなあという感想を持ちました。

とはいえ、噺としては何度も大笑いする場面がたくさんあり、ほんとにおもしろい。すごくおもしろい!
そして、おもしろいだけでなく、じんわりと不思議な印象が残る噺と思います。