緊張と緩和

ギターとかジャズとか格闘技とか

今月聞いた新譜(2019年1月)

例によってリリースされて半年未満のものは新譜という括りで。


Live

Live

マルチン・ボシレフスキ・トリオです。
2016年8月ベルギーのジャズ祭でのライヴ盤。
静謐な旋律。そこから絶妙な余韻や奥行きが広がっていく。ECMらしいライブ盤です。

マルチン・ボシレフスキをはじめて聞いたのはたぶんトーマス・スタンコ・トリオとの共演盤、『Lontano』(2006年)だったと思います。いまでもたまに聞きます。大好きなレコード。
それからだいぶ経ってマルチン・ボシレフスキ・トリオ名義のアルバムで『trio』(2010年)を聞いたのですが、そのときは「キース・ジャレットみたいだなあ」という印象でした(当時は転職したばかりで余裕がなくこのアルバムを聞き込んでなかった)。

で、久しぶりにこのアルバムでマルチン・ボシレフスキの演奏を聞いたのですが、良いですね。すごく好き。
印象が以前とだいぶ変わりました(というか、以前はきちんと聞き込んでなかったのが原因)。
叙情的で静謐。と思ってたら、突如激しい側面を見せる場面も有り。ガツンとくる刺激物が薬味的に来るのではなく、じわじわと地面が揺れるようなグルーブを感じる激しさ(マッコイ・タイナーみたいな激しさ?いや、ちょっと違うかも)。
ECMから出てほかのアルバムも聞いてみようと思います。

ぜひライブで聞いてみたいのですが、1月に来日したのですね。1週間前に知ったので予定を空けられずライブに行けなかった。残念。
情報に疎いのは良くないですね。

柳家喬太郎『ハンバーグができるまで』に思うこと

柳家喬太郎新作落語「ハンバーグができるまで」を鈴本演芸場で聞きました。

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この噺、数回聞いてるのですが、いつも「不思議な噺だなあ」という印象を受けます。
商店街を舞台にした人情噺のようであり、
滑稽噺のようであり、
男女(別れた夫婦)のすれ違いと別れを描いた悲劇でもあり、
たぶんいろんな感想を持つ人がいるのではないでしょうか。

冒頭は商店街のドタバタで物語が進行する。そのまま滑稽噺になると思いきや場面が転換して別れた夫婦の場面に。密室劇のような密度と緊張感に舞台の空気が一変し、別れた夫婦の微妙なやりとりに焦点となる。やりとり。とは言ってもふたりの間に心が通じあうことはついに、無い。

男は男で単純な期待(もう一度やりなせるのでは、という勝手な期待)を抱き、女は女で自分ひとりの納得(再婚の報告と別れ)のために(元夫への配慮無く)物事を進めていく。別れた夫婦の前には微妙な齟齬がゴロリと転がる。男の大嫌いなニンジンもハンバーグの付け合わせとしてゴロリと皿に盛られる。

そして女は別れを(勝手に)告げて男のもとを去る。男と皿に盛られた大嫌いなニンジンが残される。女が残していった微妙な齟齬と共に。
男は意を決してニンジンを食べる。
「なあんだ、ニンジンって結構...うまいじゃん」

最後の言葉は、齟齬を齟齬として飲み込んだということだろうか。大嫌いなニンジンを飲み込んだように。
現実を現実としてうけとめたということか。男の成長ということか。
このあたりは人によって受け取り方が様々と思います。

「商店街の人たちのおせっかいがキッカケで元夫婦は互いのわだかまりを解消してヨリをもどしましたとさ。めでたしめでたし」
とならないところが現代的と思う。
互いの心の齟齬なんて現代の人間関係ではそんなに簡単に解消できない。

「人情噺」的な噺でありながら、この噺では人情では何も救われてないところもおもしろい。
人情=情愛(商店街の人々の勝手な心配とおせっかい。夫婦のひとりよがりの期待と行動)をキッカケとして物語をドライブさせてるのに、最後までこれらは噛み合うこと無くすれ違う。
そもそも元夫婦の間に情愛は無い。ふたりとも個人主義であり自分勝手でワガママである。
そして男は幼稚である。「いい大人でありながらニンジンが嫌い」「商店街の人々からこどものように心配されている」「離婚してから在宅仕事になり、結果的に社会性が低下してる」「地域社会(商店街の人々)と(自分から)つながりを持とうとしない」という「幼稚」であり「社会性に欠けた」人間(=ある意味現代的な人物設定)、である。

まあ、僕も同じように社会性が低くて幼稚なものですが。。
そのくせ古典落語の世界のような「地域社会との深いつながり」と「大人が大人として機能する社会」に憧れたりもしますが。

人情噺のフォーマットを現代にあてはめるとこうなるのかなあという感想を持ちました。

とはいえ、噺としては何度も大笑いする場面がたくさんあり、ほんとにおもしろい。すごくおもしろい!
そして、おもしろいだけでなく、じんわりと不思議な印象が残る噺と思います。

習慣化について

去年後半に取り組んだことが「習慣化」です。

きっかけ

スキルを獲得するには「積み重ねの学習」が必要だなあと感じることがあり、積み重ねを確実にするには毎日ちょっとずつ学習するための仕組みが必要だなあと。つまり学習を習慣にすることではないかと。
毎日決まった時間に決まった量を学習することで、少しの時間でも確実に積み重ねていけるのでは!と考えたわけです。
で、取っ掛かりとしてどんなことを「習慣化」したかったかというとこの3つ。

  • 週に3回のジムでのウエイトトレーニン
  • 毎朝15分のギター練習
  • 通勤電車内での読書

結果

  • 「ジムでのウエイトトレーニング」は習慣化が出来た。今はほぼ毎日ジムに行っている。行かないとカラダが気持ち悪く感じるようになった。
  • 「毎朝15分のギター練習」は年末まで習慣化出来ていた。約3カ月間続けた。しかし年が明けて正月は練習を休んだ。帰省などでギターが弾けなかったこと、生活ペースが年始休みモードになってしまったことが原因である。そして年末年始休みが明けて朝の15分の時間が確保できなくなった。起きられなくなったのである。寒くて布団から出られなくなってしまった。
  • 「通勤電車内での読書」も同じで年末まで習慣化出来ていた。年末年始は休みなので通勤電車に乗らないので、電車の中で読書ができなかった。「正月明けから通勤電車読書を再開しよう」と意気込んでいたのだが、年明けから電車の混雑が激しくなり本を開けられなくなってしまった。混雑時間を外して電車に乗る、空いた車両に乗る、など方法はあるが、なんとなく本を読まなくなってしまった。

習慣化出来た原因、出来なかった原因

成果が出たか出なかったかの違いかなあと。
「ジムでのウエイトトレーニング」は2カ月目から結果が出た。鏡に映る自分の姿で筋肉量アップが成果として確認できた。
「読書」は積読が消化できたことは成果だが、目に見えて何かが変わったわけではなかった。
「ギター練習」は何も変化がなかった。演奏の上達が体感できた、なんてことは全く無かった。

習慣化するために

成功体験を感じられることがないと習慣化は継続しない。なのでどこかで自分の成長を確認できるようにしないとです。
ギター練習なら、

  • 1つの曲に絞って練習する
  • 弾けるようになったら録音して「弾けるようになった自分」の成果を確認する

とか。
つまり、「やる気の燃料」が「成果」や「結果」というご褒美を「燃料」にしているのならば、「燃料」を給油する効果的なタイミングを生活の中に仕掛けておくことが重要だと思いました。

今月聞いた新譜(2018年12月)

新しい年が開けましたが、去年の12月のことを書きます。
例によってリリースされて半年未満のものは新譜という括りで。


ライブ・アット・シャイニー・ストッキング

ライブ・アット・シャイニー・ストッキング

中牟礼貞則さんのリーダー作です。
再発なので新譜じゃないです。でも出たばかりなので。

その昔、江古田に存在してたシャイニーストッキングというジャズ・クラブでの1979年のライブ録音です。
40年前なのでジャケットの中牟礼さんのお顔も若いですね。
中牟礼さんのライブは何度か行かせて頂いてるのですが、トリオの演奏を聞いたはこのアルバムがはじめて。個人的にはなかなか新鮮です。

12月16日(日)に「GUITAR MAGAZINE presents ニッポンのジャズ ビクター名盤8作品リイシュー記念トークショー」というイベントに行ったのですが、そのときに中牟礼さんがこのアルバムへの想いを語っていて胸がジーンとなりました。
そのときの書きなぐりのメモを見ると、

  • このアルバムは自分ではあまり聞かなかった。
  • しかし再発を期にあらためて聞いた。
  • 演奏的には気に入ってないところもあるが、今聞くと感じ入るものがある。
  • やってることはいまも基本的には変わってない。
  • このアルバムは自分の原点。

とのこと(イベント中に走り書きしたメモなので、表現がだいぶ違ってるかもですが)。

イベントでは中牟礼さんの音楽に対する真摯な姿勢が垣間見えるお話が聞けて非常に感動しました。
これからもこのアルバムを聞くとそのときのことを思い出します。

行ったイベントはコチラ
real.tsite.jp



ところで、
同じく12月の初めにこちらを買いました。

カンヴァセイション

カンヴァセイション

こちらも再発です。再発されてるのを知らなくて慌てて買いました。
稲葉国光さんとのデュオです。1975年の作品。
ゴツゴツしてた稲葉さんのベースと繊細な中牟礼さんのギターが対話してるようなアルバムです。
ベースの音がすごく良いです。力強い弦の響き、ボデイの胴鳴りの音、迫力と説得力がすごいです。
2人がのびのびと(かつ緊張と気迫をもって)インタープレイしてるのが感じられます。
先の「シャイニーストッキング」よりもこちらのアルバムのほうが聞く回数は多いと思います。
ギターとベースのディオはすごく好きなのですが、このアルバムはその中でもかなりのリピート回数と思います。

学習には検証が重要というはなし

「学習はインプットすること」と思ってたが「出力しながら学習」し「出力結果を検証しながら学習する」ことが重要ということに気づいた話です。
柔術での気づきなのですが、何にでも当てはまることなのかなあと。

ざっと箇条書きにしてみる。

以前の自分
  • 柔術のスパーリング回数をこなすだけでは効果的な練習にはならない。
  • 動きを理解してないとただカラダを動かしてるだけ。汗かいてスッキリして気持ちいけど、それだけで終ってしまう。
  • 頭で理解しないとただムダにスパーリングすることになるので、頭の中で技や動きを反芻できることが重要。または、本やDVDで学習すればより良い。
今の自分
  • 頭で理解することと、カラダで理解することは別。全く別と考えたほうが良さそう。
  • 初心者のうちは頭で理解することよりも、カラダで理解することのほうが(肌感として)多いと思う。
  • 超初心者のときは、押さえ込まれてる場面で自分がどんな体勢になってるかすら分からなくなることがあるが、スパーリングをこなしてるうちに自分の体勢が分かってきて「お、ここに隙間があるから膝入れてエビ出来るな」ということが分かってくる。そういうことはスパーリングこなさないと学習できないことと思う。


ぶっちゃけ練習がおっくうになると頭でっかちに考えがちなので、以前の自分は練習がつらかったんだと思う。タップしてばかりだったので。。(スパーリングは負けながら動きを覚えるものだ、と思うようになったら楽になった)。

「やってるうちに分かる」という言葉は、理論的に構造的に理解してないことの言い訳的なところがすごくバカっぽくて、今でもすごく嫌いです。
しかし、「学習には検証が重要」という意味では、「頭で理解することと、カラダで理解することは別」というのは多分ただしいのではないかと思う。
インプットと出力→検証を短いサイクルで出来るということは学習効果としてはもっとも良いわけで、スパーリングはまさにそれではないかと。

来年(2019年)はもっと練習回数を増やそうと思います。